安井 曾太郎の絵画、掛け軸の買取りならマルミ工藝社

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安井 曾太郎

 

 

安井 曾太郎(やすい そうたろう)とは
 
1888年(明治21年)、京都中京区で木綿問屋を営む商家の五男として生まれる。当時の商人の息子の常として1898年(明治31年)4月商業学校(京都市立商業学校)に入学するが、反対する親を説得し、1903年(明治36年)3月同校を中退して絵の道に進む。翌年、聖護院洋画研究所(のち関西美術院に発展)に入所し、浅井忠、鹿子木孟郎らに師事して絵を学び始める。同時期、梅原龍三郎もここで学んでいた。
1907年(明治40年)4月、先輩画家の津田青楓が渡欧すると聞いた安井は、津田とともに渡欧することを決意した。安井は、渡欧に際し、それ以前の作を焼き捨てたとのことで、彼の初期作品はほとんど現存していない。フランスではアカデミー・ジュリアンに学んだ。
また、7年ほどのフランス滞在の間にイギリス、イタリア、スペインなどへも旅行している。1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発しドイツがフランスに宣戦布告したことに加え、安井自身の健康も悪化していたため、日本へ帰国した。翌1915年(大正4年)には第2回二科展に滞欧作44点を出品し、二科会会員にも推挙される。その後10年ほどの間は安井の画業の低迷期で、健康が回復しなかったことに加え、フランスと日本の風土の違いにも苦しみ、独自の画風を模索しつつある時期であった。
1930年(昭和5年)の『婦人像』あたりから安井独自の日本的油彩画の様式が確立し、梅原龍三郎とともに第二次世界大戦前後を通じて昭和期を代表する洋画家と評されている。1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となる。もともと文展に対抗して組織され、在野の立場を貫く二科会の方針から、安井は同会を離れざるをえなかった。翌1936年(昭和11年)、石井柏亭、有島生馬、山下新太郎らと一水会を結成。安井は生涯、同会の委員を務めた。戦後の『文藝春秋』の表紙画を担当していた。
1944年(昭和19年)には東京美術学校教授となり、1952年(昭和27年)には文化勲章を受章している。
1955年(昭和30年)、肺炎のため死去。67歳没。戒名は明徳院殿浄誉雅仙曽堂大居士。
 
安井 曾太郎(やすい そうたろう)の作品
 
孔雀と女 (1914 年) (個人蔵)
黒き髪の女(1924年)(BBプラザ美術館)
婦人像(1930年)(京都国立近代美術館)
金蓉(1934年)(東京国立近代美術館)
T先生の像(玉蟲先生像)(1934年)(東北大学史料館)
外房風景(1931年)((大原美術館)
承徳喇嘛廟(1938年)(愛知県美術館)
孫(1950年)(大原美術館)
広辞苑(装丁)(岩波書店)

 

作家名一覧

 

靉光

青木繁

朝井閑右衛門

浅井忠

梅原龍三郎

瑛九

海老原喜之助

岡鹿之助

岡田三郎助

彼末宏

国吉康雄

熊谷守一

黒田清輝

小絲源太郎

児玉幸雄

小林萬吾

小林和作

小山敬三

佐伯祐三

白滝幾之助

鈴木信太郎

関根正二

田村孝之介

鳥海青児

寺内萬治郎

中畑艸人

中村彝

鍋井克之

野間仁根

長谷川利行

林武

福井良之助

藤島武二

牧野虎雄

松本竣介

三岸好太郎

三岸節子

満谷国四郎

村山槐多

安井曽太郎

山口薫

山本鼎

萬鉄五郎

和田英作

 

 

 

 

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